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20010228

私は、今まで見てきたドラマの中で、「オーバータイム」というドラマが 一番好きだ。今でも、「ああ、あれみたいなあ・・・」とよく思い出す。
特に仕事のことやこれからのことで行き詰まっているような気持ちになった時に。
ビデオがないので、あのノベライズ版の文庫、はやく出てくれないかな・・・と祈るように 思っていたら、先週末に出たので大喜びで買いに行き、以来お守りのように毎日 持ち歩いている。何度も読み返している。朝に、通勤時間に、夜寝る前の時間に。
言葉のひとつひとつが、キレイゴトじゃなくてリアルなので余計に気持ちに響く。
例えば、こんなセリフ。

「結局さ、大人ってさ、難しいこと考えてるふりして、大事なこと背負ってるふりして、 心ン中、けっこう、スカスカだったりするじゃん」
「スカスカ?」
「うん。頭ぎっしりかもしれないけど、心スカスカ。子供ン時はさ、世界って果てしなかったし、でも、 行こうと思えばどこまでも行ける気がしたし、毎日が冒険だったし・・・」

そうそうー。そのとおりだよ冬美(このセリフを言った人)さん。
もう、激しくうなずいてしまった。
心ん中、すかすか。だから誰かのこと好きになりたいし、できれば好きになってほしいし・・・。
仕事のことで行き詰まってたら、だまって頭「ぽんぽん」ってしてほしいし。
ここに描かれている人たちみんな、幸せになりたくてでも思ったように行動もできなくて、 じたばたじたばたしている。そんな姿がとても好きだ。
こんな風に、いくら失敗してもちゃんと見ていてくれている人達がそばにいるんだったら、 私いくらでもじたばたするよって思うから、その暮らしぶりが本当にうらやましい。
私が、「年をとったら男女関係なく、大好きな人たちと大きな家で暮らしたいな」なんて 思うようになったのも、このドラマの影響が大きいと思う。
昼間はちゃんと社会人の顔してそれぞれの場所で頑張っていても、 家に帰ったら子供みたいにはしゃげる場所があること。幸せだろうな、って。
自分の中の、子供な顔を見せられる相手がいること。
それって、大人にとってのすごく大きなご褒美だって思うのだ。


20010227

友達から聞いた、とっておきの秘策を今日はご紹介しましょう。
職場のコなのだけれど、はたからみていてもそのモテぶりはすごい。職場の男性が次々に 彼女にめろめろになってゆく音が聞こえるような気がするほどなのだ。実際、 私に「彼女彼氏いるの?」とか「つきあいたいんだけどつきあってもいい?」と 聞いてくる人もいるほど。そんなもん、私に聞くな私に!(ちょっと憤る)
そんな恋愛の教祖(と私は呼んでいる)がすすめる方法だけに、試してみる価値はあると 思われます。好きな人がいる方、らぶらぶ(死語)な彼がいる方、是非お試しあれ!
さてその方法は、
「夜、別れるときとか、話おわって電話切るときなんかに『おやすみー』じゃなくってきちんと、『おやすみなさい。』 と言うこと。」
だそう。
彼女によると今までの全ての彼が、「あれは、耳に残って感動した」と言っていたらしい。
すごいどきっとするそうで。仲良し続きのカップルだとことさら新鮮だとか。
「最初は照れてても『おやすみなさいっていって』とまでいわれたことあるぞ!」 って。なんだそのものすごい威力は・・・。
彼女の友達もためしてみたところ、やはり効果はテキメンだったそうだ。
素晴らしい・・・というかそんな簡単なことでよいのね。勉強になりました。
あ、でもここに書いちゃったら、私はこの方法は使えないな・・・バレバレだ。
ま、ここを明らかに読んでいないとわかっている人になら大丈夫ということで。
いつか使いたい時がくるまで大事にしまっておくことにしようっと。


20010226

週末、スニーカーを買いにでかけた。
ハハが「あたしも行きたい」と言うので雨の中、 近所の靴屋までのんびりと歩いて行った。
いろいろ見てまわり、最終的に残った二足の候補を左右の足にそれぞれ履いてみて、 より足にぴったりとくる方を選ぶ。久しぶりに履くスニーカー。 この、足にもれなくぴったりすいつく感じがとても懐かしかった。
足も喜んでいる感じ。たった数分スニーカーを試しばきしただけなのに、 そのあと家を出る時に履いていた革靴をもう一度履いたらすごく違和感を感じた。
家に帰ってから丁寧に紐を通し、履いてみてはにんまり。
しばらく、コタツの自分の座る場所の横に置いてちょこんと置いておいた。
新しい靴やサッカーボールを買ってもらって、うれしくて枕もとに置いて寝たりする小学生みたいだな私、 なんて思いながら。

そのあと、夕方からでかけた。休日出勤している友達と会うため。
何度か、当初会うはずだった時間がずれこみそうという連絡が入り、そうやって、仕事が終わるのを 待っている自分がまるで、忙しい恋人をもっている彼女のような気がしてきて、ちょっと楽しかった。
彼女も、私に「ごめん、まだ仕事先の人がきてないの〜」と連絡している時、 「まるで彼女を待たせている男の人みたい・・・」と思っていたらしい。
「お互い、どっちかが男だったら(恋人同士になれて)ちょうどよかったのにね〜」なんて言い合う。
「でも、恋人には終わりがあるから。友達でいればずっと続くよ」と言ってから、「そういえば 昔これと同じことを好きな人に言われたような・・・」とはっとする。でも、その人とは友達としても縁を切られて もう会えなくなってしまった。だから、友達にも終わりはあるな、うん。
その日は買い物やカラオケ、お酒はいらなくて、とにかく思う存分たくさん話をしたかった。
だから、迷わずファミレスへ向かった。ここなら、ご飯を食べてデザートに甘いものを食べて、 さらにのんびりお茶を飲む、ということが心置きなくできるから。
結局、4時間半くらい話し続けた。二人共かなりしっかりとご飯も甘いものも 食べたのに、店を出る頃には小腹がすいていたほど、ガンガンしゃべった。身振り手振りも激しく、思い切り 笑って。
ああ、こういう相手がいる私は幸せだ。
ファミレスで楽しくご飯を食べて、いくら話しても話が尽きなくて、そして話すためだけに会いたいと思う相手が いる私は本当に、幸せ。そう思いながら帰ってきたのだった。


20010223

昨日に引き続き、インコの話。
「今日、お風呂に入れてあげたらますます嫌われた・・・」と母親があまりにがっかりしているので、励ますつもりで、
「あのさ、思春期の女子学生が『お父さんの入ったあとのお風呂、入りたくないの!』 ってお湯を捨てちゃうみたいに、今彼は思春期なんだよきっと。そういう時期なの」
と言ったら、
「残り湯なんて使ってないわよ〜ちゃんとそのためだけにわざわざお湯沸かしたんだから!」
・・・逆効果。

私はなぜか、かなり久しぶりに会う人から必ず、
「全然変わってないね〜」とか「久々に会ったけど、やっぱり○○(名字)さんは○○さんでした」などと 言われる。
まあ、今も含めて代々の職場がけっこう強烈な個性の持ち主なので、その環境に染まって 変わってしまう可能性も大きいと思われているからなのかもしれないが、こうも しょっちゅう言われると、「それって成長してないってこと?!」とちょっぴり複雑な気持ちに。 (いや、本当にそうだったりして)
髪の毛がちょっと伸びても「あ、髪伸ばしてるんだ、ちょっと女っぽくなったね」なんて 誰一人として言ってくれません、くすん。(たぶんそれはそうなってないからですね)
でも、どの環境にいても変わらないで「私は私」のままでいることができているのだとしたら、それってかなり うれしいことだな、と思う。


20010222

インコがかごから出てこなくなった。(彼は開けっ放しの扉から自由に出入りできるので、 遊んでほしくなると勝手に飛び出てくる)
ここ二週間くらい、ずっとだ。
でも、元気がないわけでもなく、エサはいつも通り食べているので病気の心配は ないのだけれど、なんだかよそよそしい態度。やな感じ。
「ねえ、どうしたの、人がかわっちゃったの?」とハハはつまらなそうに彼に話しかけている。前は あんなにべたべたしていたのに、その豹変ぶりはないでしょ、という気持ちなのだろう。
ただ、パンが欲しくなるとパン、キャベツが欲しくなるとキャベツの場所、といった感じでそこへ移動して じっと待つ態度は相変わらずで「まるでご飯だけは食べる居候みたいだよね」と思わず言ってしまった。
「そんな意地悪なこと言わないのっ。たぶん、私たちとは遊びたくない気分がずっと続いてるんだと思うよ」 「そうだね、そっとしとこう」
と、ちょっと距離をおいて見守っている。
基本的に「相手がほっておいてほしい時は知らん顔してほっておく」私達なので、 その相手がインコであろうとその姿勢は変わらない。
そもそも、いつもまったく同じ距離でいられる相手なんていないと私は思っている。
それは、友達でも、親でも好きな人でもそう。
気が狂うかと思うほど好きな人にも「ああ、今日は会いたくないかも・・・」と思ったことも実際 あった。
相手との関係をこわしたくないから、だから今日は距離をおかせてクダサイ。そんな気持ちの時が。
母親との関係もそうだ。帰ってから「ああ、今日は体調が悪くてあまり話したくなさそうだな」と 察したら、たとえその日とても話したいことがあったとしても次の日まで寝かしておいて、 聞いてもらえそうだな、と思った途端に勢いよく話し出すし、逆に私が疲れきってなにも 話したくない気持ちの時、母親はそっとしておいてくれる。
そうやって、相手との距離をきちんとはかれる人が私は好きだし、自分自身もそうでありたいと思う。
好きだからいつもべったりいるのではなくて、愛しているからこそ、安心して距離をおける、いい意味でほって おける、そんな関係が理想。

だから、人との会話ってたとえ同じ相手とでもいつも同じには絶対にいくはずがない。
やりとりをしている時の、その相手の気配や発する言葉から「今この人はこういう気持ちなのだな」と 自分なりに判断をして、少しずつ会話によって掘っていくような、そんな感じだ。
公園の砂場で、砂山を作ってトンネルを掘っていくのに似ているかも。


20010221

時々自分にやる、気持ちの健康診断。
ふとした時に、自分に聞いてみる。
「さっききみはコンビニで新しく出たスープ(おにぎりと一緒に食べる)を買ったけれど、 これを昼に食べるのを楽しみにしているかね?」とか、
「今日は帰りに本屋に寄れそうだけど、楽しみ?」とか。
すごく小さなくだらないことでおっけー。
それで「うん、楽しみだ」と迷わず返事ができたときはなんだかうれしくなるのだ。
近い未来の小さな楽しみを思って、わくわくできるうちは私の気持ちは大丈夫だな、とほのかに自信を持つことができるから。
ちょっと先に、楽しみにできることを置いておいて、そこまで進んでみる。
これをやる時、私はなぜか小さい頃に読んだ「ヘンゼルとグレーテル」を思い出す。
彼らが、帰り道迷子にならないように、二回目、石ではなくてお菓子をおいていった時のこと。
私の場合、自分で置いておいたお菓子を、回収して歩くのを楽しみにしているという感じ。

ふとした時に、少し昔の自分を振り返ってみる。
「あーあの時のこの子はなんておばかさんだったんでしょう」と、他人のことのように、 でもなんだかかわいらしく思えてしまう。当時に戻っていって、頭をなでてあげたくなる。
当時の行動を止めたり、忠告する気持ちにはならない、なぜか。後悔していることはたくさん あるけど、でも。
そして今の私のことも、ちょっと先にいる私から見たら「おばかちゃん」なんだろうな、 と思うとなんだか楽しい。
これってもしかしたら、将来私が子供を産み育てる時にも味わう気持ちなのかもしれないなあ・・・ なんてふっと思った。


20010220

だーめーかーもー。
昨日はまた風邪をしっかりぶりかえしてしまい(どうしても暖房の場所に長時間いると不調になる)、 帰る頃には気持ちが悪くて仕方がなかった。
貴重な週末、二日共寝たのに。どうして治らないんだよ私の身体はよ!
情けないやらつらいやらで、半泣きになりながら帰ったのだった(カッコ悪すぎる)。
泣きながら帰るのからはもう卒業できたと思ってたんだけど甘かったですな。
しっかしいい年した大人がなにやってんだか、と心の中でツッコミをいれつつ、「いい年」って「良い年」じゃないよな、 「いい加減年とった大人が」ってことなんだよな、などとくだらないことを考えた。

いつもだったら笑い飛ばして面白がれるようなやりとりがすごくしんどく感じられて。でも相手にはそれがばれないように 頑張って気にしてないふりをしたけれど、本当は嫌だった。遠回しに伝えても伝わるわけはないよな。
そんな自分にもっと疲れ、突然ブチ切れる。
もういやだ!いやだよおおおおお!!
とマンションのエレベーターの中で叫んだ。ちょっといっちゃってますよこの人。(と、他人事のように眺める私)

そんな感じで一時はどうなるかと思った私の感情だが、家に帰り母親とくだらないことで ゲラゲラ笑ったらあっけなく浮上、寝る頃にはすっかりいつもの状態まで戻ったのだった。(立ち直りもはやし)
人と一緒にいることのすごさを実感するのは、こういう時だ。


20010219

週末は、1ヶ月くらい前から約束して楽しみにしていた予定もキャンセルして、 ひたすら眠っていた。三人で遊ぶ約束だったので、「私が欠けてもあとの 二人でどうぞ遊んでおくれ・・・」と携帯にメールを送ったら、 「二人だとさみしいので延期することにした。体調がちゃんと治ったらまた 決めよう」という心やさしい返事が。うう、うれしいよ・・・。
頑張って元気になります。(今日、もう一日寝ていたかった〜)

何にも食べる気がしないんだよね
となったら、どこか体調が悪いのか、はたまたなにか精神的にまいってしまうような ことがあったのか、と疑うだろう。
でも、私の場合食欲がないことはあまり心配ごとではなくて、
なんか、本を読む気がしないし読もうと思っても読めないんだよね
という状態になってしまった時に、私は自分で自分のことが心配になる。
部屋の本棚に並ぶ本を、手当たり次第に引っ張り出して、ぱらぱらとめくって 読みたい気持ちを必死に思い起こそうとした。
このまま、本を読みたいと思わない自分になってしまったら。
そう想像するだけでこわくてしかたなかった。
そんなの、生きてる甲斐がない。
いやだ、いやだ。
と思ってここ一週間くらいずっとつらかったのだが、土日に死んだように眠りたおしたら 昨日の夜は少し読むことができた。
なーんだ。
私、疲れてたのか。
と納得&安心して、読むのは30分くらいで終わらせ早々と寝たら、今朝はもっと元気に読めた。
本を読めるかどうかは私の健康(心身共に)のバロメーターになっているのだなあ、とつくづく実感。


20010215

昨日はふわふわしていた。
と、いっても、浮かれていたのではなくて、熱っぽくて、ふわふわ。
帰り道、人にぶつかられたりするちょっとしたことがむしょうに 腹ただしくて、自分でも眉間にしわが寄るのがわかった。
あーいらいらしてる、私。見知らぬ人を突然傷つけたりする人ってこんな気持ちのさらに20倍くらいなのかな、 などと思わず想像してしまったほど。体調に余裕がないと人にやさしくなれないから、やっぱりいつも 健康でなきゃいかんなあ、としみじみ思った。
味なんてわからなかったけどとにかく必死に食べ物を詰め込み、寝る寸前に甘酒を 飲んで暖まってから、首にはタオル、頭にパーカーをかぶって寝た。
今朝は自分を甘やかして、一駅歩くのはパスしようと思っていたのだけれど、 ジーンズをはいたら、なんだかもものあたりに余裕が。もっとぴっちり感があったのに。
もしかしてももがやせた?!
とうれしくなってしまい、一日でもサボるとせっかくの効果が薄れるかも、と結局歩くことにする。
身支度をしていたら、母親が起きてきた気配。いつもは寝ているのにどうしたのかと 思ったら、心配して起きてくれたらしい。すみません・・・。
「あったかい牛乳を飲んでいく?」「甘酒ちょっとだけ飲む?」などと聞かれたけれど、 とても飲める気分ではなく、「いらない」。そっけなく断ってしまった自分が ひどい人間に思えて、少し落ち込む。
それから、母親も起きているとトイレのタイミングをずらしたりするのに 気をつかってしまうので「なんで今日は起きてるの?」とからんでしまったりして 落ち込みはさらに倍増。体調悪い時にこそ性格の良し悪しってはっきりしますよね・・・。
一人暮らししたい、と考えることは最近はなくなったが、トイレ問題が 発生した時だけは「あー一人暮らしの人はトイレが自由気ままに使えていいなあ。使い放題(?)だぜい」なんて思う。
結局、なんだか落ち着かないのでいつもよりさらに早い時間に家を出てきてしまった。


20010214

最近我が家では、「おばちゃんごっこ」が流行っている。
それも、お笑いのコントで芸人さんがやるような、べたなおばちゃんでなければこの遊びは面白くないのだ。
お互いのことを「ねえおばちゃん」「なあにおばちゃん(かったるそーに)」と呼び合ってわざと おばちゃんくさいしゃべり方で会話する。そして自分のことも「おばちゃんさあ」とおばちゃん 呼ばわりするのがポイント。
「おばちゃんもう疲れちまったよ・・・(ぐったりしてみる)」「そっかーおばちゃんもよ」 「お互い大変よねえ(やはりかったるそうに)」
こんな感じで。やさぐれたおばちゃん二人の同居生活。
おばちゃんの、疲れた疲れたと言いながらも、自分のペースで「どっこいしょ」と 物事をなぎ倒していくようなたくましさはぜひ身につけたいもんだ、なんて思う。

昨日の夜も、にせおばちゃん(あ、一人(母)は本物のおばちゃんですね)二人で コタツでぐったりしていたのだが、突然「なんかうちって養老院みたいよねえ〜」と 言われてしまったのだった。
どうやら、おばちゃんを通り越して「おばあちゃん」になってしまったらしい・・・。


20010213

転職してからの私は、かなり先までの週末の予定が決まる傾向にあるのだけれど、
「こうやって、2週間先とか1週間先の予定をがんがん入れて、とりあえすそこまで 頑張ろう、って必死に乗り切ることをこの先ずっと繰り返していくんだろうか」
そう思ったらなんだか、少しむなしい気持ちになった。
もっと先のことが全然見えない。

人間は誰でも、楽な方へと進みたいと思う生き物だ。
寒い場所にいたら、暖かい所へ行きたいと思うように、つらい場所にいると 自分が感じたら、普通なら楽な場所へと逃れたくなるはず。
でも、例えば、寒い!と感じた途端に暖かい所へ逃げていたら、いつまでたっても 寒さへの耐性はつかない。少し我慢してみて、「もうだめだ!」という限界を 少しずつ伸ばしていきながら、適度な間隔で、暖かい場所での休憩をとる。
そういう姿勢のほうが私は好きだ。
だから仕事をしていく上で自分の弱い気持ちの方が勝りそうになった時も、 すぐに楽な場所にふらふらと逃げ込むのではなくて、もうちょっと頑張ってみよか、と 自己記録を伸ばすような気持ちでやっていってみたい。
ただ、そのタイミングを間違えると自分で自分を故障させる可能性もあるのだけれど。
限界を越えるまで頑張り続けて、一度も止まらず、休まずというのは危険。 自分の臨界点を見定めること。自分の気持ちの揺れを、見逃さない。

気持ちが勇み足だ、浮ついていると感じる時は、大事な決断をしたり、大事な人に会ったりすることは 避けるようにしている。自分の器と中身がぴたっと一致していると思える時でないと、言動のすべてが 上滑りしてしまって自分自身もつらいから。そういう時は約束をしていても「ココロが不調」という ことで、ごめんなさいしてしまったりすることも、ある。いつでも変わらず、人に会うことの できる人ってすごいなあ・・・と、心底うらやましく思うし尊敬。
仕事をしている間は、自分の中身の「お仕事モード」な部分だけが 自分から離れてぷうかぷうかと浮き上がっているような感じ。そのコが がむしゃらに引っ張っていってくれるので「人に会えないの」なんて甘ったれたことを 思う間もなくちゃんとやっていけるし、お仕事モードが絶好調な時は 我ながら「ううむ、自分の中にこんなにたくましい部分があったのか・・・」と驚くことすらある。そして そのうれしさも手伝い「お仕事ハイ」な状態で平日は過ぎていくのだ。
そして週末は、お仕事モードさんにはお休みいただいて、のーんびり。平日は眠っていた弱音はきモードさん なんかにも出てきてもらって、自分の気持ちを解放してあげましょう。
スイッチのようにパチリと一瞬で器用に切り替えられないのが最近ちょっと苦しいけど、 でも、切り替え切り替えしながらこれからも進んでいこう。
今は先が見えなくても、見える場所までいつか行けると思うから。


20010209

どうも私は、
「いろんなことにこだわりがありすぎない」
人が好きみたいだ。
気持ちのなかに、ひっかりがありすぎる人は苦手。
今一緒に仕事をしているけっこう年上の男性が、 頻繁に外出するし携帯も使っているのにまだPHSを使っていて、しかも 私がおととしの夏まで使っていたものと同じ(つまりはかなり昔の型)だったのを 見たときは、「あーこの人ってこまかいことにこだわらなそうー」 と思ってちょっとファンになった。(残念ながらそのあと しばらくして機種交換してしまったが)
自分の好きなものや世界の中にあるもの以外はなんだっていいよん、 という雰囲気の人にはどうも好感を持ってしまう。
「これがいいと思うけど、あれもありだよね」くらいの、受け入れ口の広い人が好き。 グルメすぎるとか、おしゃれすぎるとか、かっこつけすぎるとか、人に対して 厳しすぎるとか、そういう人からはぴゅーっと逃げがちです、私。
昨日「カバチタレ!」の中で、主人公が喫茶店でのアルバイトで 白いブラウスに黒いブラをつけさせられていることに対して「別にこれくらいいいじゃない?」って 態度だったところを見て「ああ、このこだわらない具合、素敵だ・・・。私もこういう人になりたい」と思ったのだった。

このドラマを見ていると、毎回なにか必ず、心にひっかかるセリフがある。
昨日は「信じないことのほうが楽なんだよ。傷つかなくてすむからね」という言葉。
新たな人間関係において、今の私は信じないようにしている。信じないことを前提につきあっていれば、 なにされても傷つかないですむもんねー、という気持ちが、確かにある。
信じていない人に対してのほうが、やさしくなれるし人間関係も一見スムーズだ。 だって自分の気持ちを相手に渡していないし渡すつもりもないから。
気持ちの領域を守ったままだから、その分やさしくなれる。いくらでも。
そして、すでに信じている人のことは、もう「信じている」ことを意識しないくらい そんなこと当たり前のことなので。
「あなたのこと信じる」なんてわざわざ言葉や態度で示さなければならないような関係なら、 私はいりません。


20010208

なんで、平気で彼女からもらったメールを他人に見せるんだろ。
と、釈然としない気持ちになった。
昨日見せられたのは、昔の彼女からのメール。
就職して東京に出てくることになって、遠距離になってしまうことが原因で 別れたのだそう。お互い、嫌いで別れたわけではないので、特に 彼女のほうは彼に思いが残っていたみたい。
「結納ももうしたし、結婚もするよ。結婚してほしくない?そんなことはないか。」
そんな内容のメールを読ませてどうしようというのか。
それも「こんな風に彼女には言われたんだよ」というのではなく、メールそのものを見せられるのって、つらい。
話に聞くだけなら、「ふーん、そんなこともあったんだ」と他人のこととして 通り過ぎることができるけれど、メールそのものを見てしまうと どうしても、書いた人の人となりとか、その時の気持ちなんかを推し量ってしまうから。
相手の領域に踏み込んでしまったような気がして、少し疲れる。
現彼女でもない私に見せてしまうなんて、そんな気軽に扱ってしまっていいのかな?(いや、たとえ現 彼女にでもよくないと思いますが)
メールは確かに、手書きの手紙より手軽な分、そこに書かれた言葉は少し軽く扱われがちなような気はする。 そして、保存しておけばいくらでも人に見せることはカンタン。
そんなの、私だってよくわかっている。重々承知だ。
だけどさ。だからってさ。
みんながみんな「いざとなったら他人に転送されてしまうかもしれないけどそれでもいいや」なんて 覚悟しているわけないじゃないか
と、なんだかやりきれない気持ちになったのだった。
たとえば、自分が相手に喜んでもらいたくてあげたプレゼントを、そのまま他の人に 渡されてしまった時のような。「こんなもんもらったんだよー」と笑い者にされたような。
うまく言えないけれど、もし私がその彼女の立場だったら、そんな気持ちになるような気がする。

私は昔、好きだった人に、彼女からのメールを見せられたことがある。
とてもつらかった。
今だに内容を暗唱できてしまうくらい、覚えてしまっている。
その時に、「ああ、この人はたぶん、私からのメールも平気で他の人に見せるんだろうな・・・」と 悲しく思った気持ちも。


20010207

どうやら私はもうすっかり、スカートをはくことを放棄してしまったようですね
と、まるで他人事のように自分の気持ちを眺めてしまった。
ジーンズ、またはそれ以外のパンツにしか手が伸びない。
特にジーンズはすっかり職場の制服状態だ。今、職場にはいて行ってもいいジーンズは3本。 それらをぐるぐると着まわしている。でも周囲の人には絶対にわからないんだろうな・・・いつも おんなじ格好してるようにしか見えないんだろうな・・・。
もともとスカートはあまり得意ではなかったけれど、ここにきてその思いが再燃 してしまった感じ。ああ、もったいない。せっかくはくようになってたのに。
自分でも、スカートをはけば少ない服の数でも雰囲気を変えることができるし、 着まわしの幅が広がることはよおくわかっているのだが、それでもどうも気持ちが駄目で、 結局いつものジーンズを手にとってしまう。
それにジーンズをはいていると、自分の気持ちの元気な部分、少し男っぽい部分が 前に出て来てくれるような気がして、今の仕事をしていく上では、私にとってはその方がよい ように思う。

ジーンズ大好き。とにかく大好き。きれいにはくことができた(おなかもきちんとペッタンコで)日は一日気分がいい。
ジーンズをはくために体型を保つ努力を真剣にしているといっても過言ではないのだ。
そしてもっとやせたいぞう。憧れはお約束ですが、シマロン。
きれいにはけるようになりたい。それまでは試着もしないで、お店に行っても 横目で睨むだけにとどめている。いつかはいてやる、待ってろよシマロン!
ジーンズにしてはちょっと値段高めなので、おそらくそれを正直に母親に告げたら、
「なにいー、ジーンズのくせに1万以上もするだとーお!」とぶっとばされそう(母親にとっては ジーンズはおしゃれ着じゃなくて作業着、という位置づけ)なのでちょっとサバを読んで安く 言うことにしよう。それでもいつか絶対に買っちゃる〜。
できれば今年中を目標としているので、最近は間食をしそうになっても、
「まてよ、このひとくちでシマロンが遠のく・・・」と思うと伸ばしかけた手が しゅるしゅると引っ込んでいくのだった。
最近は、残業をしていておなかが減ると、節分用の豆の余りを食べてます。


20010206

一週間、平日はまるで、短距離競争のよう。
一気に駆け抜けないと。途中で止まったり休んだりしたらもう走れない。そんな必死な思いで。
呼吸数も減らして、他のことは考えないで、一目散に。
昨日の帰りはなんだか気持ちが疲れていた。
電車に乗っていて人にぶつかられたり、改札口で人にまみれてうまく歩けない自分に、 いりいり、とした。そしてそんな自分の気持ちを感じてよけいにくたびれてしまう。
自分で自分を疲れさせているな、今日の私。そう思いながら帰った。

一日中端末に向かっていると、だんだん自分の情緒が動かなくなっていくのを感じる。
なにかを感じる心が、鈍くなっていく。
動かしたい。なんでもいいから動かしたい。
そんな時、私は多少無理矢理にでも、本を読む。そうやって、ちょっと思い切って立ち止まりたいのだ。
今自分の気持ちを直視してしまったら、もしかしたら明日の朝、起きるのがつらいかもしれない。仕事に でかけること、しんどくて嫌になってしまうかもしれない。
でも、今この麻痺した気持ちをすくいあげないで放っておくことのほうが、私はこわいし、
このまま知らん顔して進むことはできないよ
という自分の中からの声を、無視はできない。

以前、母に言われたのだが、 自分の性格を悪くしないためには、要所要所で自分の行動を、 あの時の自分はよくなかったかな、などとこまめに振り返ることが大事なのだそうだ。 それをしないで暴走してしまうと、性格も人相も悪くなってしまうよと言われた。
時々立ち止まることは、必要。
いい意味で「我を忘れない」ことも、必要。


20010205

土曜日、前の職場で一緒に働いていた人たちと食事をした。
おいしく食べて、少しお酒も飲んで、たくさんしゃべって楽しい時間を過ごし、 さてそろそろ帰りましょうか、えーっと一人頭・・・と計算しようとしていた その時、そのメンバーの中で唯一の男性がさらりと、
「いや、今日は俺がここ払うよ」。
そのさりげなさ、さわやかさに残り4人はしびれたのだった。
本当にかっこよかった。その男性がもらっているお給料も大体 わかってしまっているだけになおさら、ありがたくて、うれしくて。

私、頑張って働いておかねもちになって、そのお金で人を喜ばせてあげられる人になりたい!
と、思った。つよくつよく。


20010202

母親と「渡る世間は鬼ばかり」を見た。(「カバチタレ!」を見るために10時まで起きていな ければならないので、つなぎ)
楽しみにしているわけではけしてない。
でも、登場人物の性格の悪さ、人間関係のぐじゃぐじゃぶりがものすごいので、逆にその不快さを楽しむ つもりで自ら進んでそこへ足を踏み入れている、という感じだ。本当に疲れている時には 絶対に見ることができない。
昨日は何が原因だったか忘れてしまったが、二人同時に笑いのツボにがっちりとはまった瞬間があった。
「見た?」「見た」「たぶん今、二人して同じところに目線がいってたよね」「うん」
特に母はもう、糸のような細い目になって大笑いしていて、その顔を我が親ながら「いい笑顔するなあ」 と、かわいく思う。
そして、「そういえば、一緒に暮らしはじめた頃は、私はなんだかいつも不機嫌で なにかにいらだっていて、家にいる時は親に笑顔を見せることすら 勿体無いような、損したような気持ちになっていたな。どうしてそんなばからしいことを 思っていたんだろう」と昔の自分に聞いてみたい気持ちになったのだった。
家にいつも「ふきげんちゃん」がいて、母は嫌だったろうな。と、いまさらながら申し訳なく思う。


20010201

今朝、ジリジリと鳴り響く目覚まし時計を止めながら、
「こうやって、私が昨日(というか今日)遅くに寝たことも 身体中がばきばきに疲れていることもなにもかもおかまいなしに 律義に鳴る、こいつのこと、好きかも・・・」と思った。
余計な要素は一切からまずに自分の仕事をさせていただいております、そんな姿勢が。

私は一日のうちに、ぼーっとしている時間が全部で最低30分くらいは必ずある。
平日はたいてい、朝だ。その時間がないと、気持ちに余裕がなくなってくる。睡眠不足以上に こたえる。
その時間を確保するために、私の朝はいつも分刻み。
自分の中で、例えば「6時45分までには化粧を終わらせる」というリミットを決めておいて、 それよりも5分以上早くに完了したら45分までの残り時間は自由時間にしていいという ルール。その時間は「ご褒美タイム」として本や雑誌を読みながら足ツボマッサージをしたりする。
そこからまた、今度は「7時までに」と次のリミットを決めて身支度をしていくのだ。
そんなことをゴール(家を出る)までに、4、5回くらい繰り返す。
一回5分か10分の、でもとても貴重なその時間のご褒美が欲しくて必死に頑張るので、 朝の身支度が素早くできるようになってきた。特に、顔を洗ったり着替えるのがつらい 冬の朝にはおすすめの方法かもしれない。
だけど、全体的にはとても時間がかかっている。
平日は出勤のタイムリミットがあるのでせいぜいかけても1時間半後くらいには家を出るが、 休日に友達と約束をしている時などは、家を出るまでに2時間半くらいかけて、 少しずつ少しずつ準備をしていく。間に少し長めのご褒美タイムを入れて、音楽も流しながらのんびりと。(音楽をかけながら 身支度するのは、休日の朝限定のオプションなのだ)
ひどい時は、家を出るまでに3時間くらいかかることもある。我ながらのろすぎる・・・と思うのだけれど、 こうやって、ご褒美の時間を過ごしつつ、でかけられる気持ちの準備を整えることの方が私にとっては大事。
その方が、睡眠時間をたくさんとることよりも、気持ちや体調をよい状態に保ってくれるような気がするから


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