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20010330

今回、給料日からもう一週間くらい経つのにまだ一冊も本を買っていない。
本屋には何度も足を運んでいるのに、雑誌以外一冊もだ。
これはすごいこと、私にとっては。
どうしてしまったのだろう・・・と自分のことが心配になるほど。
文庫の新刊に、ピンとくるものがないというせいだけではない。(今までは既刊のものでも ガンガン買っていたから)なんだか気持ちが浮ついていて、 本をキチンと選べないのだ。
頭の芯になにか重苦しいものがずっとあって、それが邪魔をしてくる。
本の前で、静かな気持ちに、冴えた状態になれない。どの本が自分を呼ぶのかがわからない。
うわーいやだ。
本を読まない私なんて、生きている甲斐がないよ。
大げさだけれと、それくらいの失望感、自分に対して。
そしてあまりにも悲しい・・・。
生まれてから一度も、本に対してここまでの気持ちになったことはなかったのに。(少し疎遠に なるくらいは、あったが)
なんとかして本への気持ちを呼び覚まそうと、家にある本をちょろりちょろりと読んではいるのだけれど、
つっかれてんだなあ・・・なんか。たいてい読み切ることができず、途中で閉じてしまう。
今まではどんなに疲れていても本を読むことは別腹(?)だったのにもう、だめなのだ。 読書はある意味パワーが要る作業だから、その力が今は落ちているということなのだろうとは思う。
気持ちが疲れていると人に会うのもしんどくなるように、今の私は本に出会うこともちょっとつらいのだろう。

この間行った温泉宿のようなところで、
散歩温泉読書ご飯温泉読書温泉読書読書
みたいな生活をしたい、と思う。しばらく。1ヶ月くらい。


20010329

最近の私は、食べ物に癒しを求めることが多い。
それは本当にちょっとしたものでよくて、数百円のお菓子や100円アイス、その程度で 充分なのだけれど、それらをちょこまかと買うものだから、すっかりエンゲル係数が 高くなってしまった。
食べることが目的というより、そうやって自分になにかおいしいものを買ってあげる という行為に癒されているようだ。

平日の夕飯は大体、ヨーグルトかチーズ(カルシウム)、卵(蛋白質)、プルーン(鉄&カリウム) を食べて終わる。ヨーグルトとチーズだけは冷蔵庫に欠かさないように気をつけているのだ。
それで、あとは栄養剤を飲んで終了。正味10分くらいの夕ご飯。
こんな生活ももう2年ちかくになるので慣れた。7時くらいに食べられるのでなければ、 毎日きちんとした夕飯を摂るのはかえってからだに負担になってしまうし。
しょうがないのよー、働いてる人は大小あれど、きっとこんな感じよー。
と自分に言い聞かせる。しょぼくれた気持ちにならないように。
ただ、最近は食べることをもっと大切にした生活をしたいなあ、としみじみ思う。
本屋に行っても料理本につい目がいくし、スーパーで野菜を見るとわくわくするし、 パン屋で焼きたてのパンの香りを嗅ぐと心から幸せな気持ちになる。


20010328

昨日は午前半休をとった。
なんだか自分の中身がいっぱいいっぱい、ぱんぱんになってしまったようで、 それが体調にまででてきてしまったので、これは半日分くらいの褒美を自分に 与えてもバチは当たらないだろうと思ったのだ。
「明日は、上の人たちは昨日まで休んで出てくる日だから 午前中くらいはたまったメールの処理などでつぶれるに違いない。そうすると、 私のところまで指示がくるとしても午後いちくらいになるな。」と判断して。(ずる休みするのだから、 これくらいの周到さがなければ)
休むと決めて眠ったものの、体内時計がセットされているのかいつも通りの時間に一度 目が覚めた。そこで「やっぱり休まないで行こうかな・・・」とうだうだ悩んだが なんだかからだも気持ちもつらいし・・・もうちょっと眠りたい
そう思ったので素直に寝た。
しかし、それから見た夢がすごかった。
母が、私の部屋の本棚から本を勝手に引っ張り出して、模様替えをしてしまったという夢。 (もちろんそんなこと母はしない・・・)
それに対して夢の中の私は烈火のごとく怒っていて、
「なんでそういうことするわけ?!どういう本を読んでるかっていうのは プライバシーでしょう?だから図書館だって守秘義務があるわけだし!!(夢の中でも こういうセリフがでてくる自分がちょっといやだ)私はどんなに仲の いい人にも、自分が読んでる本を全部さらけだすことなんてできないんだからね!」
もう、心底怒っていた。ものすごい怒りだった。
それだけでは飽き足らず、自分の部屋に引っ込んでから、母が並べた本たちを なぎ倒したり、鞄の中身をぶちまけて壁に投げつけたり、大暴れだった。 (携帯が、ちゃんと最近機種交換した形だったのをはっきり覚えている)
暴れているうちに、どうやらこれは、母に対しての怒りの気持ちだけで暴れている わけではないようだ、自分の中にたまったストレスを放出するためにやっているのではないか?
と夢の中の私もだんだん気がついてきた。もう止まらない。止められない。たすけて〜。
・・・というところで必死に目を覚ましたのだった。
泣いていた。(夢の中で泣きながら暴れていたから)
ああ、つらい夢だった。
思いもよらず、自分の中にたまりまくったものを目の前に突きつけられたような気がした。
夢の中には時に、実生活ではできないが本当はやりたいことがあらわれるというが、 私、暴れたいのだろうか?それはちょっと自覚したくなかったな・・・。

そんな夢を見たせいかたくさん眠った割には疲れていて、なんだかなあ、という気持ちになりながらも のんびりと身支度をし、近所のマックで朝昼兼用のご飯を食べた。
ご褒美時間を過ごしていると実感できるのはこういう時。一時間くらいかけて、のんびりと食べ、お茶を 飲みながら本を読んだ。

昼間のベンチには、小さな子どもを連れた母親の姿が多くて、 ああ、普通に仕事をしていたらいつもは絶対に出会えない光景だな・・・平和だな・・・と思った。
もしかしたら、ベビーカーを押しているその女性の気持ちの中になにか暗いものが渦巻いているかもしれなくても。 とりあえず、私にはそう感じられたのだ。
人の幸せなんて、外から見ただけではわからないけれど、もちろん。
私だって、昼休みにおかずを買いに外に出たり本屋をのぞいている時は、 「仕事の合間に息抜きにきた社会人」風にとても充実した人に見えているかもしれない。
表面だけを見て幸せそうだとか、うらやましいなんて無邪気に言えないな、 そう思うようになった自分を感じた。


20010326

土曜日は、大学時代からの友人二人と遊んだ。
まずはボーリングをして、そのあと、飲み屋が開くまで時間があったので少しゲーセンで遊んで。
店が開くと同時に入り、まだ明るいうちから飲みはじめたのだった。
彼らと飲んでいるといつもついついたくさん飲んでしまう。同じくらいのペースで 飲めないとつまらないのと、安心して飲めて楽しいのとで。
土曜日も、飲み屋で飲んだのと、そのあとカラオケに行ってさらに飲んだのとで いつも飲む量の倍くらいは飲んだのではないだろうか。帰る頃にはかなりへろへろに 酔っ払っていた。
私は、酔うと素直になれることが多くて、喜怒哀楽が激しくなる。
そんな時に、安心してそれらを見せられる相手と一緒にいられるのはすごく幸せなことだなと しみじみ思う。
こんな風にまた、彼らと会えたらいいなと心から思った。
帰っていく二人を見送る時、猛烈にさみしくて、つまらなくて、 切符を奪い取って困らせたりしてしまった。
家に帰れば母親がいるのはわかっていて、一人っぽちになるわけじゃないのに 寂しくてたまらず、このまままっすぐに帰る気持ちにどうしてもなれなくて、 そのまま近所をぐるぐると歩きまわった。酔っ払っているせいで、感情の 抑制がきかず、時々、涙ぐみながら。(はたからみたらかなりヤバイ)
本当は、私、悲しいんだな・・・悔しいし腹も立っているし、心痛いんだよ・・・。
と、やっと認めてやれる気持ちになった。

カラオケで、内田有紀の「幸せになりたい」という曲を歌ったら、友達に 「それ本音?ねえ本音?」と思い切り突っ込まれたのだけれど、酔った勢いもあり思わず 「そう、本音!」と叫んでからはっとした。
しあわせになりたい
そう思っていた自分の本音に気がついたから。
今の私には、そのためにしなければならないことがあるような気がする。


20010323

結局人って、誰かに必要とされたり、ちゃんと大切にされることで頑張っていけるのかな
と思う。
私も必要とされたい。役に立ちたい。
本当にちょっとしたこと、たとえば私の存在で誰かが元気になれたり、 ほっとできたり、そんなことでいいから。私がいることに、意味を感じてくれる人がいたらいいのに。
単純に、誰かに求められてみたいな、と思う。
今、仕事の上でそういうものを見出せないからよけいにそう思うようになったのかもしれない。
昨日、時々話すようになった同期の人から「○○さん(私の苗字)やめないでね」 と言われた時、おお、この人は私の仕事に対して揺れている気持ちをもしかして見抜いているのか やばいな、と思うと同時に、そう言ってくれた気持ちがうれしかった。
私が辞めて職場からいなくなったらツマンナイな、そう思ってくれる人が一人でもいるだけでもこんなにうれしいなんて、 ちょっと気持ち乾いてるぞ〜、と思いながら帰った。
ただその一言をもらっただけなのに、とても暖かく感じたのだ。


20010322

ハハに、
「あんたはもう絶対に一人でも生きていけるわね〜、それだけ人を信じなくて、 それだけ裏の裏まで見てたら」と苦笑いしながら言われてしまった。
石橋を叩いて叩いて叩きまくって、でも結局渡らないタイプだそうだ、私は。
で、叩きすぎて石橋を叩き壊して元も子もなくなるらしい。
壊れるまで叩いて、「ほらやっぱり壊れた」と言う。
わ〜、やな性格。信じてないし。


20010321

返事が欲しくて待っている人から返事がこないと、
あー、
死んじゃったんだな・・・
と思う。
そう思って自分の気持ちを納得させて、悲しくならないように防御してしまう。
死んでしまったんなら仕方ないよね、とあきらめがつくから。
返事がくると、気持ちの中のその人が少し生き返り、こなくなったらまた殺す。
そうやって、同じ人を何度も気持ちの中で殺しているうちに、本当にその人がこの世から いなくなったような気がしてくるのだ。


20010319

土曜日は、4月に結婚し遠方に住むことになる地元の友達と遊んだ。
お茶飲んで、ゲーセンでプリクラを撮って、お茶飲んで、またゲーセンをのぞいて、 最後はモスで軽く食べて帰ってきた。
お茶のはしご。
結婚準備で忙しい彼女とはしばらく会っていなかったので、ゆっくりいろいろなことを話した。
あと一ヶ月もしないうちに近所からいなくなってしまうなんて、信じられない。
実感がまだわかない。いつまでも、いつでも会える距離にいてくれるような 気がしてならない。
そのことを考えるとお互い悲しくなってしまうので、努めて、いつもと同じように 過ごすことを心がけた。
彼女と写したプリクラを見たら、なんだか自分の顔が母に似てきたことに気がついた。
なんだか不思議な気持ちがした。仕事を辞めてから、どんどん穏やかな顔になっていっている 母。この顔にあと25年くらい後になれるのなら悪くない、私もやわらかい表情の人でいたいな、いられるといいな、と思った。

昨日は一日、部屋で音楽を聴きながら、のんびり気ままに過ごした。いつもなら必ずやると 決めている掃除も、「火曜日にやればいいや、今日は一日だらだらしていよう」とサボることを自分に許可して、 心置きなくだらだらした。
洋服の整理をしたり、本棚のスペースをあけて、新しい本を買ってきても大丈夫なように 準備をしたり、部屋の中のものをちまちまといじるのが大好きだ。
ひとしきり片づけたあとは、昼酒。梅酒を飲んでほんのり酔っ払う。
久しぶりに部屋で心置きなく過ごすことができて、うれしかった。


20010316

昨日の夜、母と才能について話した。
偶然にもテレビで歌っている鬼束ちひろを見ながら。どうも、彼女は 私の気持ちを揺さぶってくる、いろいろな意味で。
「才能のある人はいいな・・・」と私がぼやくと、母が、
「才能は誰でももってるのよ。それに早くから気がついて努力するかしないかの差だけで。 何の才能もない人なんていないのよ」と言った。
そうなのかなあ・・・と釈然としない気持ちで考える。
「あんたは何がやりたいの。何なら自分がやっていけそうな気がするの」とさらに 聞かれた。
言えない。
「でも、やりたいことがあったって、自分がそのことの才能がないっていうのは もうわかるもの」と反論すると、すかさず、
「それはあんた、不幸体質。そういう考え方の人は一生幸せにはなれないよ。 今日テレビでやってたけど、ボトルに半分しか入っていないワインを見て 『ああ、まだ半分も入ってる』って思える人は幸せになれるけど、 『もう半分しかない・・・』と思う人は一生幸せにはなれないんだって」と ばしっと言われる。
・・・私は、そういう考え方が実は大嫌いなのだ。
なんでも前向きに、ポジティブに考えたりとらえたりできない人は よくない、幸せになれない、みたいな考え方。
どうして、「あ、あと半分しかない。すぐになくなると悲しいから残りは大事に少しずつ飲もう」って 考え方じゃだめなんだろうと思う。どうして無理して残りの半分を喜ばなければならないのだろうと思うのだ。
だから、才能についてだってそう。
私が文章を書いていきたいと思っていても、それを職業にすることは できないという限界のようなものはわかっているつもりだ。
それは、あきらめるとかそういうことではなくて、自分の今いる位置をしっかりと見据えるというのに近い。
文章を書く才能がない自分をしっかりと認識することの、どこがいけないのさ、と思う。
才能がないのはわかっている。だけど書いていたい。その気持ちだけははっきりしている。 それでいいじゃないか。
正直、私はきちんと文章へ挑戦するのがこわいのだ。
挑戦して、「あなたには、文章の力がありません」と最後通告をされるのがこわくてたまらない。
でも、だからといってまったくなにも書かない自分になることはどうしてもできなくて、 だからこうしてこの場所を大事にあたためて、書きつづけているのだろう。
ここを奪われたら、私の気持ちは死んでしまうと思うから。

わかっている。
本当に真剣に文章を書く方へ進みたいのなら、今の仕事なんて辞めて、 アルバイトでも派遣でもかけもちしてとにかく生活費を稼ぎながら書くくらいの 根性を据えなかったら駄目だということ。
そして、それができない私はきっとこのまま中途半端にくすぶっているだろうことも。
そんな自分にいらいらしていることも。

(自分がなにものにもなれないだろうと気がついてしまう。でも、まだなにかになれるかもしれないとも思っている)

自分が、何かに秀でた人にはなれないということ。
その他大勢のままで、毎日を必死に泳ぎ続けて終わってしまうかもしれないこと。

・・・たぶん、母の目から見たら、今の私は毎日がつらそうで、仕事に対してもやる気がなくて、 生きながら死んでいるみたいに見えるんだろうな・・・と思う。
生き生きと生きていないのだろうと。


20010315

生理前の一週間くらい、私は自分がケモノになったような気になる。
人間じゃなくて、女じゃなくて、単なる雌だ今の私は、と思う。
暴力的な食欲、かと思えば猛烈な吐き気、むくみはじめる身体、痛む腰と腹。
それから、これは誰も同意してくれないのだけれど、この期間中ずっと、口の中には血の 味がしている。本当に、獣っぽいなと思う。何を食べても、 歯を磨いても、ガムを噛んでも消えない、血の味。
眠くて、ひたすら眠くて。身体の力に抗えない。ぼんやりとしているだけの自分。
そして気持ちも少しずつ、ずぶずぶとどんよりとした泥沼の中にめり込んでいく。思考がすべて悪い方へと転がっていく。
こういう時の自分は、身体も気持ちも薄汚れているような気がする。 ボロボロのモップになったような、ほのかにミジメな気持ち。
そんな時は、人がこわくて仕方がないのだ。
少し混んでいる電車に乗るだけでも、一緒に乗っている人たちがこわく感じられて、 はやく誰の目もないところへ逃げたくてたまらなくなる。
昨日はちょうど、そんな気分だった。
早く帰ったので本屋に寄ったのだけれど、店にいる他の人たちと 近くにいるのがしんどくていたたまれず、結局すぐに帰ってきてしまった。(CDだけは必死に買いに行ったけど)
せっかく早く帰ることができても、これじゃあね。

こんな時はただ、眠っていたい、って思う。
安心できる場所で、丸まってぬくぬくと。
だって、わけもなく泣きたくなるし。
眠りは私を傷つけないから。とっとと寝てしまおう。

だけど、起きたら今朝はとても暖かくて、春だ!分厚いコートが脱げるぞと思ったら なんだか無性に楽しい気持ちになった。


20010314

本を読んでいる時に、自分が、その物語の中にすっと入り込めたと感じる瞬間が訪れることがある。
その瞬間、とてつもなく幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
それはもう、息苦しいほど。

私にとって、本を大切に扱うということはとてもとても当然のことだ。
母親が読書家で(私とは比べものにならない)本を大切にする人だったため、幼い頃から自然に、 本を大切にする習慣がついていた。
本を開いたまま伏せたりしない。ページを折り曲げたりなんてもってのほか。
それから、ものを食べながら読んだりもしない。(大人になってからは時々やってしまうが)
本に対する、尊敬の気持ちのようなものが根底にあるのだと思う。
そこは、神聖な場所なのだ、私にとって。
そこに行けることが、私の幸せ。
いつも、本を読める自分でいることが幸せだなあ・・・としみじみ思う。
そしてそれを気がつかせてくれるのは、読んだことのない本ではなくて、 すでに部屋の本棚に何年も前からひっそりといてくれる、友達みたいな存在の 本のことが多い。
昨日も、大学時代から持っている本を読み返した。読み終えてからふと背表紙を見て、 「昔はこんなに安かったんだ・・・」とちょっとショックを受ける。
今って文庫本でも、お昼一食分くらいの値段。 だから、昼代をできるだけ浮かせて本を買うようにしているのだけれど。
本、もっと安くなってほしい・・・。


20010312

五感を刺激されることにとにかく飢えているのだ、私は。
この週末、温泉旅行に行ったのだが、そのことをつくづく実感して帰ってきた。
例えば露天風呂につかりながら空を眺めること。「ああ、そういえば最近、空を見上げたことなんて (天気をうかがう時以外)ないなあ」と気が付いたり。
夜遅くに入った時にも、「こうやって、のんびりと月を眺めるのは久しぶりだ」と思った。 (いつもは、早く帰りたくて必死なので空を見上げる気持ちの余裕がないのだ)
それから、旅館のたっぷりしたご飯を夜6時半という健康的な時間に食べたことも貴重だった。
でも、一番気持ちがよかったのは、梅を見るために軽い山登り(?)のようなものを したこと。道は舗装されていたが、周りには土があり、木々が生い茂る。
息を吸うたびに、自分の中が浄化されていくような気持ちを味わった。
自然の中に身を置いていると、自分からよけいなものがボロボロと剥げ落ちて シンプル極まりない状態になるのがわかるのだ。頭だけでものを考えていない。
頭でっかちな状態でいると、気持ちの風通しが悪くなってしまいぱんぱんになるし、それに伴い肉体的にも弱ってしまう。
心と肉体がばらばらな状態で動いているのだ。
本当にしたいことができない。言いたいことが言えない。行きたい場所にいけない。
なによりも、自分がどうしたいのかもわからない。
自然の中にいた時、自分の本能に近い部分が研ぎ澄まされているような気がして、それが本当に気持ちよかった。歩けば 歩くほど、気持ちにどんどん元気がみなぎってくるのがわかった。

旅先にはなにもなくて退屈するかもしれない?と思い、いつも聴いているスガシカオの曲を入れた ウォークマン、そして本を持っていったのだが、それらの出番はなかった。自分自身と 向き合って、いつもは無視しがちな深い部分からの声を聞くのに忙しくて、退屈なんてしているひまは なかった。


20010309

家に帰ってコタツでぐったりとしていたら、ハハに
「どうしちゃったの?しぼんじゃったの?」と聞かれ、その「しぼんじゃった」という表現が、 まるで自分が風船になったような気がしてちょっと笑ってしまった。
「まあねえ〜人間生きてりゃいろんなことあるし、そうそういつも元気ではいられ ないわよね」
さらにそう言われて、そっか、そうだよな、無理に元気でいる必要もないのか、 と少し気持ちが楽になった。

我が家の洗面所には、陶器でできた置物と私が高校生の時につくった クマの人形が置いてあるのだけれど、最近それらの位置関係が見る度にかわっている。
ある時は、クマが陶器の人形に抱きついていたり。ある時は寄りかかってすっくと立っていたり。 (クマの人形は手足が自由に動くようになっているので)
それを見るとなんだかふわりと気持ちがほころぶのを感じる。
私がいない間にこそっと人形に細工しているハハの姿が目に浮かぶようで。
私をちょっと微笑ませたくてやっているであろう母親の気持ちが、なんだかかわいらしい。


20010308

面白いな〜。
最近ずっと、ほとんど食べることができていなくて眠れてもいなくてボロボロな状態なのに、 「髪を切ってきれいになったよね」なんて言ってくれた人がいたのだ!しかも男性です。
びっくり。
直接言われたわけじゃないけれど、素直に嬉しかった。
頑張って笑っているのも無駄じゃないのね、なんて少し報われた気持ちになった。
全然深い気持ちのつながりのない、単なる同じ職場の人、くらいの位置にいるような 人からちょっとやさしくされるとめちゃくちゃ身にしみてしまう。
ああ、弱ってるな、私。
こういう時は、逆に自分を追い込むみたいに予定を入れまくったり忙しくして 何も考えないようにしておくのがいいのかもしれない。
元気なフリ、楽しいフリをしているうちに本当にそうなってくることもあるし。
自分をだましてやれ!

昨日は職場の飲み会だった。
頑張って、笑ったし騒いだ。
だけど自分の家のある駅の改札を出たら、もう完全に酔いなんて冷めていた。
時間が時間だけに、周りには陽気なヨッパライたちだらけ。
閉まったシャッターの前で熱い抱擁を交わしている恋人たちもいたり。
もし、今自分が100%幸せだったら「ああ、仲良しさんたちだ」とあったかい 気持ちになれたのだろう。恋愛をしていなくても、幸せな時はそう思える。
でも、その姿を見てぎゅっと胸が痛くなった私はやっぱり、少し傷んでいるんだな・・・と思った。


20010307

自分の感情を剥き出しにするのはよくないことだ。
心のどこかでいつもそう思っている。
自分の感情を相手にぶつけることは、相手に迷惑をかけること。 だから、我慢すればいい。
ずっと、そう思ってきたような気がする。
だから、小さい頃一人でさみしくてもそう言えなかったし、どうして自分には 父親がいないのかわからなくて聞きたかった時も聞けなかったし、 本当に言いたいことは言えないことのほうが多かった。
それで、苦しくて、文章を書くほうに逃げたんだと思う。 文章に書くだけなら誰にも迷惑をかけないから。
そうやって、自分の中でちゃんと処理してきたつもりでいた。
でも本当は、そうじゃない。
どんどんどんどん、言えない言葉や思いが溜まっていくのだ。
まるで欽ちゃんの仮装大賞の得点表示みたいに、ぽんぽんと積みあがっていく。
「ああ、今は18ポイントくらいかな・・・」なんてぼんやりと思ったりも。
自分の中に重い石が詰め込まれているみたいに苦しい。
苦しいよつらいよ。
でも、そう感じる私のほうが間違っているんだよ。 そう思うからよけいにつらくて。つらがる自分を責めてしまう。
大人なんだから、ちゃんとしなくちゃ。
しゃんとしろ。
昨日はそれでもどうにもならなかった。
せめてお風呂で泣きたくて(母親に聞かれずに泣ける場所はここしかない) 頑張って涙をしぼり出そうとしたけれど、だめで。
自分が破裂しそう。いらいらして、何かを壊しそう。
電話を手にとれば投げつけて壊したくなるし、 CDだって割りそうになる。どうにかなりそうで、それがこわくて枕をぶん殴る。
どうして一人暮らしじゃないんだろう。一人だったら、泣いたり叫んだり 暴れたりできるのに。どうしてこんな時に一人じゃないんだろ。
そう思う自分のことがまた嫌いになる。
助けて、つらい。このままじゃ眠れない。
そう思ったら、救いを求めるようにパソコンを起動していた。
文章を書かせて。書いて少し楽にさせて。
それはもう、気持ちの絶叫に近かった。

書いたら少し、救われた。
文章の前では、自分をとりつくろう必要はないから、楽になった。


20010306

たぶん、私の中になにか問題があるのだろう。
ここまで何度も同じことが起こるということは。
私は妻がいる人とか彼女がいる人とか、とにかく自分だけを見てくれる可能性のまったくない 人に好かれることが多い。(その相手は、まったくそんな対象として見ていなかった人の時もあるし、 ひっそり思っていた人の場合もある)
最近ではそのことにもなんだか慣れてきてしまい、笑えないけど笑ってしまう。ああ、まただよ・・・と。
「うーん、私の人生けっこう面白いかも」なんて茶化す余裕さえ出てきた。
友達に言われた。
私は、平気じゃないのに平気なフリしちゃうからいけないんだよ、って。
だから、安心されるんだよ、と。
ものわかりの悪い女になりな、とも言われた。
でも、私と真面目に一生を共にしようとしてくれる人なんて この先現れないのではないか
私はきっといつもこうやって、 おこぼれみたいにもらえる気持ちで満足しながらつなぎつないで生きていくのではないか
なんて思えてきてしまったので、おこぼれな人のことすらなんだか大切に思えてきてしまうのだ。
ま、そういうのもありかな、なんて。人の気持ちは そんなきれいにはいかないよね、と思ってしまう、この許容範囲の広さがいけないのだろうか、もしかして。
それと、プライドの低さ?
「私だけを見てくれないような人なんていらない」
ときっぱり言えないところが問題なのかもしれない。


20010305

土曜日は、広島から友達が出てきたので、東京にいるもう一人の友達と三人で遊んだ。
「東京タワーに行きたい」と言われたので浜松町で待ち合わせ、そこから歩く。
途中、お寺を通り抜けたのだが、そこに小さなお地蔵さんがずらりと並んでいる場所があって、 それを見た私は、「オーバータイム」の中で夏樹(主人公)が 酔っ払ってお地蔵さんの肩を親しげにポンと叩き「頼んだぞ。じぞー。幸せにしてくれよ」と 一生懸命頼んでいたシーンを思い出し、自分も同じことをしたい衝動に駆られた。
そこまではできなかったけれど、
お地蔵さん、どうか幸せにしてください
そう心の中でつぶやいて通り過ぎた。
帰りはまた浜松町まで歩いて帰り、そこから今度は渋谷へ。昼間の3時過ぎから 餃子のお店で生ビールを飲み酔っ払う。
最近友達と話していると、やたらと健康についてのものが出現するようになってきた気がする。
「最近腰痛がひどくてさ。アリナミンなんとかってのを飲んだら楽になってきた」だの、
「風邪をひくとなかなか治らなくなってきた」だの、
「血液検査をするとコレステロールが年々高くなってる」だの。
20代でこれなら、30、40になった時には一体どんな会話になってるんだろうか・・・とちょっと 不安になった。
みんな、パンパンに張った肩や腰、疲れた気持ちを抱えてどっこいしょ、っと頑張ってるんだね、 それぞれの場所で。
遠くから来た友達だからといって何か特別なことをするわけでも、特別な話をするわけでもなく、 まるでいつも会っているかのようにあちこちをぶらりぶらりとして帰ってきた。
また会える時までガンバロ。


20010304

最近、元気ないねとか疲れてるみたいなどと言われる。
たしかに自分でも、まるで底無し沼にひきずりこまれるように疲れている感じがするのだ。
頑張って食べても、栄養が身体にたまらず通過していってるみたい。ざるだ、私の身体。
そのせいで、身体になんだか力がはいらない。まるで、自分だけでは引きずっていくことができないほど重い、 砂袋のように感じる。
自分で自分をけっとばしたい。しゃん、とできない自分に腹が立ってくるのだ。
友達からも心配してもらったりして、ありがたいやら申し訳ないやら うれしいやらなのだけれど、どうも私は今、友達だけでは埋めてもらえない部分が ぽっかりと欠落しているようだ。
友達が埋めてくれる場所と、すきな人が埋めてくれる場所って なんだか微妙に違っているような気がする。友達がくれるのがなにもついていない ふかふかのパンだとしたら、すきな人がくれるのはあまーい蜂蜜をたっぷりかけた パン、という感じ。
友達は、ぎゅうはしてくれないからな。いや、してもらっても困るしな・・・。
友情も欲しいけど愛情も欲しいの。
欲張りです。
今欲しいのは言葉とかではなくて、無言でいいから「ぽんぽん」と頭をたたいてついでにぎゅう してくれること。
それだけ。
・・・って甘ったれてる自分に、またむかむかする。


20010301

昨日の朝、友達から「今日は有給とって休むよ。たぶんずっと寝てるか、 買い物してるかだと思うけど、いつでもPHSに連絡してだいじょぶだからね」というメールがきていたのだが、 それを読んだ時、ふんわりと幸せな気持ちになった。
社会人て、お互い連絡とること、どこか遠慮すると思う。恋人同士でもないかぎり、やはり相手の時間とか 体調とか気持ちとかどんどん考えてしまって結局連絡がとれないことがほとんど。相手の領域にどかどかと 踏み込んでいくような気がしてしまうから、だから電話をかけるのは苦手。
鞄から電話を取り出して、その相手の番号を表示するところまではするのだが、結局、
「電話したいな・・・声聞きたいな・・・でもなんか用事があるわけでもないし。迷惑だよね。 えーい、起きてるからつらいんだ、寝ちまえ!」と布団をがばっとかぶってやりすごしてしまう。
そういうときに「いつでも連絡していいよ」っていってもらえるのって それだけでお守りだなあ・・・と思った。
実際に連絡することがなくても、この安心感があるだけで、気持ちが楽になるな、って。

安心をくれる人が、すきです。
なんでも話していいよ
そばにいていいよ
どんな私をみせてもいいよ
そう思わせてくれるひとが。

もし彼女が男性だったら、間違いなく、私は恋しちゃうんだろうな・・・。


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